歴史
創業
初代藤原半助が嘉永元年(一八四八) 年当市中心部に創業、現在地での営業は大正九年(一九二〇) 年です。
布半の由来
初代藤原半助が屋号布屋という呉服商を営み布屋半助と通常呼ばれていたのでこれが短くなって、“布半ぬのはん”と 呼ばれるようになりました。
初代藤原半助が、商業中心部諏訪中町で布半の前身「布屋」を創業
江戸時代は布屋とともに 「郷宿の布屋」を営んでいました。郷宿とは、一般の人の他に、藩内村々と契約して、その村役が藩の役所に出向いてくれる時の指定宿で、役所に提出する文書その他の代書をした宿のことです。
三代目藤原半助が、諏訪で初めて天然温泉を掘り当て「布屋」が温泉旅館に
問屋が集中し旅籠屋が並ぶ目抜き通りでは、大変な賑わいでございました。その当時の諏訪はシルク王国で、外国人のバイヤーや技術指導員が多く往き交い、布屋も多く利用していただきました。
島木赤彦や斎藤茂吉などアララギ派の常宿となる
島木赤彦や斉藤茂吉など多くの歌人の歌会の場となりました。
現在の諏訪湖半に別館として「布半別荘」を開設
当時としては大変珍しいベッド付き洋室が話題となりました。この「布半別荘」が今日の「布半」(ぬのはん) でございます。「布半」は、布屋の半助が縮まって「布半」と呼ばれるようになりました。
古き良き日本の伝統を守りながらも常に新しい時代を見据えたおもてなし
「布半」は古き良き日本の伝統を守りながらも常に新しい時代を見据えたおもてなしを心がけて参りました。今後も同様のまごころを 持ち続けたいと存じております。
布半のシンボルマーク
"蛇の目"が当社のシンボルマークで初代より使用の看板屋根瓦を始めとして、浴衣食器その他に使用しております二つの円はお客様へのココロの通う接遇とマヨヤカさを象徴しております。
作家
島木赤彦・新田次郎・太宰治・島崎藤村・宮本輝・西村京太郎・松本清張・宮尾登美子・斎藤茂吉
芸能人・アナウンサー
美空ひばり・三船敏郎・西村晃・草刈民代・筑紫哲也・間寛平・笠知衆・福留功男アナ
スポーツ
青木功・中島常行・広岡(元)監督・川上(元)監督・西本(元)監督
映画監督
五所平之介・篠田正浩
布半に滞在し、くつろぐ赤彦
大正時代の布半
布半からボートにのる赤彦
大正13年の諏訪湖
斎藤茂吉が初めて信濃を訪れたのは、大正二年七月二十七日で、上諏訪町の布半旅館で宿泊している。茂吉が、諏訪滞在の宿を同旅館と決めたのは、島木赤彦の紹介からであろう。そこは、赤彦が前々から常宿のようにしていた処である。
茂吉の「赤彦君追憶」の中には、このときの「布半」での生活に触れている。
七月廿日ごろ、僕は赤彦君を東京に残して、一足先きに信州へ立った。上諏訪町の布半旅館に着くと友からいろいろもてなしを受けて東京の左千夫先生や千樫君等へ通信もせずに日を過ごした。当時郡視学をしてゐた赤彦君に知られると具合が悪い、赤彦君の帰らないうちがいいと言ふので、一夜上諏訪の遊郭に遊びに行ったりなどした。昼は暑くとも朝夕諏訪湖の面を吹いて来る風は流石に涼しい。息づまるやうな、都会の狂人守の生活からしばし離れて、僕の心はゆったりしてゐる。ある夜湯槽のなかで、美しい布半の娘と山の話をしたりなどした。
茂吉の文章に登場する「布半」の娘は、うめといって、当時十九歳であった。「布半」は、十二人の子福者で、うめはその長女であった。上諏訪の高島小学校時代には、赤彦の教え子でもあった。のちに、うめの末娘幸子が赤彦の童話を読んでいたとき、「私はその先生に教わった」と語ったそうである。
斎藤茂吉から赤彦(本名:久保田俊彦)への手紙
布半で書かれた赤彦の手紙